FLATSTONE's Blog

ギター好き中年のモノローグ

本当に自明なのか

自己啓発書好きが陥る沼

オレは割と読書をする方だと思っています。年間でも100冊は確実に超えているので、読書家とはいえないまでも 読んでいる方でしょう。ただ、技術書と自己啓発書が大半なので、本当の意味での読書とは言えないかも知れないです。

技術書は職業上の必要性から買うことが多いため、買ってからも参照する形で読了するというのは中々無いのですが、 自己啓発書はほぼ無計画に購入し、途中で読むのを止めた本も多数あります。

自己啓発書は不思議なもので、1冊読んだ程度で効果が現れるのは稀。何冊か類書を読んでいるうちに腑に落ちる事が 結構あります。また、読めば読むほど効果を実感できなくなります

本当に理解しているのか?

著者による概要

toyokeizai.net

予め断っておきますが、著者をディスるつもりではないです。

この本の宣伝文句は如何にもありがちで、以前、「ビリギャル」というのが話題になりましたが、そういう 「昔はだめだったがこの方法で成功した」というストーリーの本は、いわゆる自己啓発本の中でも稼ぎ頭である一方、 オカルト系に分類されるようなものもあり、なかなか鵜呑みにできないです。 オレも「沼」に落ちている人間として、この手の本の効果に多大な疑問を持っています。 最大の問題点は、検証可能性が無いことです。たとえ、セミナー等で効果があったと喧伝しても、参加者のうち何パーセント が効果があったのか?何パーセント以上を持って万人に効果ありとするのかが不明なので、そういうやり方もあるね程度の 認識でいます。

実際、自己啓発書を複数出版している人のセミナーに参加したことがあるのですが、結構な数の信者がいたりして、その に記載されている手法の有効性を示すにはサンプルが偏りすぎている気がします。

そういう経験を踏まえた上でのこの本の感想なんですが、軽い語り口で、とにかく「最底辺から最高学府に到達した」と いう部分が宣伝文句として協力過ぎるせいか、各手法を鵜呑みにできない部分が多々ある一方で、見落とされれがちな「自明な部分」にスポットを当てている事は 結構重要だと思いました。

会社勤めの長いおっさんおばさんならわかると思いますが、社内の多くの事は「自明」で成り立っていて、それを 前提に業務が回っています。それが崩れる場合、例えば転職者が来た場合、逆に転職して別会社に行った場合、 その「自明」な部分が共有できずに業務効率が下がる、もっと深刻になると業務に支障をきたす事態もあります。

その「自明」な部分をいち早く察知できる人は対応能力の高い人と言えます。でも、そういったスキルが有る人は 稀であり、「自明」な事がわかるまで時間を要します。 何故時間がかかるかというと、その組織に長くいる人間からすると、「自明」な事が何かをはっきりと説明できない 事が殆どなので、外部から来た人間に説明できないからです。

その意味では、ある層では自明であることが、他の層では自明でないという事、自明でないことを自明にするためには どいうするかという事がわかるという意味では(自分にとっては)この本を読む価値がありました。

本当に理解しているのか?(再)

しかし、著者は普通に読書ができているので、「偏差値35」というのが事実でも煽り文句にしか見えません。 東大模試での数値であれば、そもそも学力の低い学生は東大模試なんか受ける訳がないので、額面通りには 受け取れないです。

AI vs. 教科書が読めない子どもたち

AI vs. 教科書が読めない子どもたち

奇しくも『東大読書』の本文で言及のあった上記の本ですが、この本では「そもそも書かれている文章が理解できない子供が一定数いる」という事を説明しています。この本の主題がAI研究の成果についてなのですが、実際には、現在の子供達の 文章読解力に対する警鐘であるのは本を読めば分かる通りです。 現実は『東大読書』の実践の前提となる「本が読める」というレベルにすら到達しない子どもたちが一定数いる、いや、 大人も含めて一定数いると言っていいかもしれないです。

そう、これは子供時代をとっくの昔に通過したオレのようなオッサン世代にも当てはまる問題 であり、昔から明確に存在した学力格差の根本原因はこの「読解力」にあったのではないかと。 実感として、社会人として実績を残しているのに理解力に疑問を持つ人間を多く見てきたから言えるのですが、 もしかしたら、そういう根本の部分に問題を抱えたままの社会人が以外に多いのではないかと思えます。

理解よりパターン

と、危惧するのは、オレはエンジニアとして曲がりなりに25年やってきて、自分の技術力にはある程度の自信はあります が、そいういう技術の積み重ねを経て得た視点から見て、明らかにおかしい案件が散見され、理由を聞くと 「過去の経験から」という返答が多いことに気づいたからです。 今までは、経験則からくる判断であれば仕方が無いかと思っていたのですが、これは設計対象に対する理解からくる判断では無く、 ある種のパターン認識です。と、なれば、その判断に根拠はなく、ほんとうの意味での説明ができないという事で、 結構恐ろしい話です。

考えたくもなかったのですが、日本の学力神話というのが、授業レベルと、それによる深い理解を依り代にしていたという は幻想であって、一部の深い理解を持つ人と多数の成功パターンを記憶している人から成り立っているのではないかと 思えてきました。

プログラミング必須の時代に

どうも、プログラミングが学校の必須科目になるらしいので、この問題がさらに顕在化するのではと危惧しています。 いや、顕在化してくれたほうが対処のしようがあるからマシか。 危惧しているのは「プログラミングはパターンの組み合わせ」という1つの側面のみの理解で授業が成立してしまう のではないかということ。いわゆる「動けばいい」というやっつけ仕事が横行するのではないかと。 設計現場でもよくある事なので、あまり批判はできないのですが、「なぜこれが意図したとおりに動作するのか」 「なぜこの記述では動作しないのか」という視点が無いと、プログラミングというスキルの理解には結びつかない です。

プログラミングが、ある種の「成功パターンの寄せ集め」でも成立してしまうため、算数や数学よりもパターン認識 の問題に陥りやすく、より多くのパターンを覚えることで、相応のレベルに到達するため、本当にそのレベルに 到達しているのかを判断するのが難しいです。こういう覚え方をし続けた人は大概デバッグで躓くので、それで 自分の理解のレベルというものを思い知るのですが、そういう過程を経ていない人もいて、そういうのが いろいろとやらかしてくれます。

パターンと言うと、今は定着してわざわざ言及しなくなったデザインパターンも一種のパターンですが、これは 覚えているだけでは使えない代物であり、現実に当てはめてみてパターンに押し込めるかどうかを見極めるのは 相応のスキルを必要とします。書籍が出始めた頃はやたらとこのデザインパターンを使いたがるヤツが居たのですが、 ヤツがそのパターンの有効性を検証した上で採用したわけではなく、単に流行りだったから、やってみたかったから 取り入れたというのが殆どでした。勉強しているのは悪くないですが、何か勘違いしているというか。

おっさんの戯言

オレは学校でプログラミングを習得したものの、スキルを磨いたのは現場に放り込まれて独学でやったので (ソフトウェアの専門部隊には結局、一度も所属できず)、かなり基礎的な部分が抜けています。これで苦労したのは アメリカで向こうのエンジニアと一緒に仕事をしたときです。アメリカでは、基礎となるコンピュータサイエンスを しっかり習得していないエンジニアは全く信用されないです。例え、相応の実績があったとしても、 同列にみなしてくれないです。 オレはそういう意味では同じソフトウェアエンジニアには終始信頼されず、最終的に信頼されたのはシステムを構築 して稼働実績を上げたからです。

なので、若い人たちは、コンピュータサイエンスの基本的な部分は完全に「自明」のレベルまで持っていくように。 少なくとも、海外ではそれが「自明」でなければ通用しないからね。